人によって文章を書く目的はさまざまだろう。わたしが文章を書くようになったのは、ひとえに「話すのが苦手」だったからだ。 今なお、「うかつに発言できない」とつねづねブレーキを踏んでいるつもりなのだが、お年頃になってからは「そんな風に見えない」と、言われることも増えてしまった。ペラペラと喋っているのは、一体誰なのか。決して、私ではないと思いたい。
しかしながら、浅はかにも、ことばにしている誰かの内側で、ことばにならないものたちと相変わらずモゴモゴと言いあったり、葛藤しているもう一人のわたしがいる。「話すのが苦手」ずっとそう感じてきたのは、常にそばにいるモゴモゴの存在を無視できないからである。
モゴモゴの正体とは?
モゴモゴの正体は、言語と非言語、ポジとネガ、白と黒みたいな、わかりやすく二分された世界の住人ではない。もっと混沌としたわけのわからない世界にいる。この「わからなさ」を言い表すにはどうしたらいいのかと考えていたら、ふと学生時代にならった「虚数」のことを思い出した。
「2乗したら-1になる」という許しがたい存在
さて、虚数については、未だにちゃんと理解できたとは口が裂けても言えない。若かりしころは、とりあえず教わったとおりに計算を「操作」はしていたようだが、結局、今ひとつ理解できないまま今に至る。
計算の「操作」ができることと、存在を「理解」することは、イコールではない。虚数の「発見」は16世紀と言われているが、その「意味」が解き明かされたのは、なんと18世紀〜19世紀にかけてである。つまり、プロの数学者でさえ、わけがわからないまま虚数とつき合う時間が100年以上続いた。わたしたちが数学の時間でちょっとばかり習ったくらいで、さっぱりわからなくても、決して不思議なことではない。
数学に苦手意識を感じたり、つまづいたりするのは、意味の理解が追いつく前に、理解不能な概念が押し寄せてくるからだ。「2乗したら-1になる」という概念を棒読みしたところで、なんの意味もない。目に見えない世界の数字なんだということは想像できても、それが何であるか、わかりやすく人に伝えられるようになるまでには、かなり隔たりがある。
この手応えのなさは、なんだ?
存在を認めないわけにはいかないけれども、正体がよくわからないままつきあう。これは、人間にとってなかなか苦しいことだ。「虚数」あるいは”imaginary number(想像上の数字)”という名前にも、その苦々しい心境がとてもよくあらわれている気がする。
「なんだお前は!?さっぱりわからないぞ!」
ひとこと物申したくても、虚数というヤツは、つかみどころがない。どこに向かって叫んだらいいのかが、わからない。彼らは実数のように肌身でひたひたとその存在を感じることはできないし、手元でいくら計算しても、ヤツをちゃんと捕まえられているのかどうか、いまひとつ確信が持てない。どこまでいっても、存在の実感が湧いてこないのである。毎回毎回、狐につままれたような気分になる。それが、私にとっての虚数だった。
さて、中学だったか高校の数学で、そんなわけのわからない「虚数なる世界」があるということを知った。20年あまり経った今も、よくわからないままなので、将来娘に尋ねられることがあったとしても「パパに聞きなさい」そう言うことだけは、決まっている。
「正答、さもなくば誤答」という不安
話しことばに対する苦手意識は、掴みどころのない虚数の虚さと不確かさに似ている。その裏には誤りを怖れる気持ちも多分にある。数学の世界は別としても、世の中のありとあらゆることは、正解なんて決まっていないんだよ、そう言い聞かせたところで、オトナはやはり正解が気になるものである。
わたしにとって、即興で「話す」ことは、虚数のテストで答えがあっているかどうか、まったく確証がもてないまま答案用紙を提出するようなことに近かった。いったい何十年前の話をしてるんだ、という話だが、そういうことである。
ただ虚数が、わからない存在だからといって、存在していないわけではないように、私が常々ことばにする中で感じているモゴモゴ=ことばにできない連中も、きっとどこかに存在しているはずだ。わたしにとって、「書くこと」は、なんとかしてそのモゴモゴの正体に、にじり寄っていく歩みである。
書き言葉の安心感たるや、実数の如し?!
ことばにしながら、ことばにならないものの存在を感じてしまう。この点については、話しことばも書き言葉もそう変わらない。とはいえ、「書く」という工程を踏むことで、今の自分が掴んでいるもの、感じていること、考えていることをひとつひとつ、ことばや文字に刻みこむことができる。話すよりは、書く方が、うっかり曖昧な境界(地雷)を踏むということを、避けられる気がする。わたしにとって話しことばが虚数なら、書き言葉は、実数の世界なのだ。
書くことは、自分の内的基準と照らしあわせる行為
ナタリー・D・ロジャーズの『表現アートセラピー』という本の中に、創造性を育成するには内的条件と外的条件が必要で、その内的条件のひとつに「評価の内的基準が自分にあること」が挙げられている。
私にとって「書くこと」は、この内的基準と照らしあわせる行為なのかもしれない。話している段階では、まだ十分にその基準に照らすことができないが、「書く」という行為を通して、ひとつひとつ、自分で「そうだ」と思えるかどうかを確かめることができる。
だからといって、今、ここで書いている言葉が、誰からも「そうだ」とうなずいてもらえると、確信しながら書いているわけではない。書くことは、ほかの誰でもない、自分に通じているかどうかを確かめる行為だ。他者の同意を確かめながら書ける人なんて、稀である。読み手からどう思われるかは、もちろん気になるところではあるけれども、結局のところ「自分が読みたいと思える文章を書けているか」という基準を手放さないことが、書き続けるためには、とても大切なことだと思う。
書き言葉が言葉になれるのは
W.J.オングの『声の文化と文字の文化』という本の中で、書き手の聴衆はつねに虚構であること、虚構された読者に向かって書かなければならないことが、書くことを難しくしているという記述がある。書き言葉の孤独は、書いているときに独りだからではない。書き言葉はつねに、聴衆不在の孤独にさらされている。書き言葉が言葉になれるのは、読み手の心に触れた瞬間だけだ。しかもその瞬間を、書き手が見届けることは、ほとんど不可能にひとしい。書くことは、その孤独と向き合いつづける営みである。
よくわからない虚数空間=読み手に向かってことばを書くのは、決して簡単なことではない。けれども、自分の「そうだ」と思える実感に向かってなら、書くことができる。そしてそれは、虚数のようなよくわからないものを、なかったものとして扱ったり、実数だけの世界で満足することではなく、よくわからないものの存在をそのまま認めながら、少しずつことばにして、その「正体」に近づいていくことだ。
多分わたしは、他の人が思うほど、ことばにするのが得意な人でも早い人でもない。なぜなら私が言葉にした何かの隣には、常にうまくことばにできない「モゴモゴ」がいるからだ。ノートに書き散らかしたものは、そのままでは原稿にならない。そこから文章としてまとめるまでには、さらにあっちこっちに行ったり、推敲したりと、えらく時間がかかってしまう。
わたしは理想の文章の答えを知っているわけではない。手っ取り早く文章にしたい人、すでに完成された理想の文章を書きたいのならAIに任せたほうがよっぽど早いだろう。けれども、書くことは自らの思考の系譜を辿りながらことばにしていくことであり、かつてのどこかの誰かの思考の過程で生まれたことばを切り貼りするのとは、根本的に違う。
これだけAIが進化しても、わたしが書き続けていられるのは、ひとえに書きながら思考し、自分の思う理想の正体や、モゴモゴの正体を見破っていくことが楽しいからだ。
TOMOKO
【編集後記】
本文中の『表現アートセラピー』という本は今もAmazonで入手できます。(https://amzn.asia/d/0c0xYYMG)。ただ、人によってはやや読みにくいと感じるかもしれません。この本のポイントをとてもわかりやすく紹介してくれている記事がありますので、興味を持たれた方はこの記事から読まれると良いかも知れません。
『表現アートセラピーと快画』
https://note.com/kimura_creative/n/n430c0ff43ba1
