人が深く安堵し、しあわせを感じることばとは、どんなことばだろう。
最初に浮かんだのは、小さなこどもに絵本を読み聞かせる母親の声だ。ものがたりの内容なんて、ほとんど覚えていない。まどろむ意識の中で、母親の声と空間に身をゆだね、時のながれが次第にゆっくりにな…って……い………く。そのしあわせな記憶は、時を超えて「からだ」に刻まれている。
さらに遡ると、わたしたちが一番最初に「ことば」に触れるのは、母親の胎内にいるときだ。わたしたちは母親の子宮と声につつまれて育った。羊水の中から聴く母親の声はどんな声であっただろう。
聞こえてくる声やことばに、どんな「意味」があるのかも、子宮の向こう側はどんな世界なのかを知らなくても、ただ聞こえてくる音に 身をゆだねるだけでよかった。それは、なんともしあわせな時間だったはずだ。
読み聞かせでものがたりと母親の声のあわいをたゆたう感覚は、母親の胎内に包まれるしあわせと、とても良く似ている。
ことばを聴くことは、存在を聴くこと
一方、大人になったわたしたちはどうだろう。なにかを見聞きすれば、すぐさま意味や目的に変換したくなる。あいまいなもの、意味のわからないもののために、脳のスペースをあけておく余裕はない。すぐさまスマホで検索したり、AIに尋ねたくなる。意味がわからないまま「ただ聴く」ということが、すっかり贅沢なことになってしまった。
おまけに書く人、話す人が増えて、ことばは溢れかえっている。「わたしのはなしを聞いて!」という人はたくさんいるけれど、「あなたの話をじっくり聴きますよ」と、そう 手を挙げてくれる人はとても少ない。ほんとうに、少なくなってしまった。
書くことのほんとうの孤独は、独りで書いていることではない。どんなにすばらしい文章が書けたと思っても、読んでくれる人、聴いてくれる人がいないかもしれないという孤独をのりこえるのが、いちばん難しい。
いま、あなたのことばを「聴いて」くれる人はいるだろうか。
ここで、目を瞑って森の中を歩いているときのことを想像してみてほしい。どんな森でも構わない。今まで訪れたなかで、いちばんお気に入りの森を思い出してみよう。
わたしたちが森に静けさを感じるのは、「無音」だからではない。森の中は都会よりもずっとたくさんの音が響いている。木の葉のざわめき、小鳥のさえずり、虫の声、枯葉の乾いた音、小枝が折れる音。あるいは沈黙。プロの指揮者でもタクトを振ることができないくらいランダムに、ユニークな音が重なり合っている。それでもわたしたちの耳がその音をうるさいと感じることはない。森は、ただ耳をすませている。
来る者拒まず、去るもの追わず。森は、肯定も否定もしない。特別誰かにおせっかいを焼くということもない。森を訪れたわたしたちが深く安堵し、癒されるのは、森がわたしたちの存在をただ「聴いて」くれるからだ。そう考えると、いま、わたしたちに必要なのは、どんなことばであろうと、聴いてもらえる安心につつまれることではないだろうか。
ことばの鼓動を回復してくれる「声」のちから
あなたが想像している以上に「声」はいろんなことを教えてくれる。ピンとこないという人は、いちどじぶんで書いた原稿を声に出して読んでみるといいだろう。読み始めたとたん、書かれたことばが呼吸、リズム、間合い、気配といったことばの身振りを取り戻すことにすぐ気がつくはずだ。
声がふるわせるのは、耳の鼓膜だけではない。からだ全体をふるわせ、わたしたちは声に包まれる。なぜなら音は焦点を持たないからだ。目で見る文字とちがって、声はあらゆる方向から聴こえてくる。母親の胎内にいたときと同じ原初の感覚と安心に包まれるとき、あなたのことばがどこに向かいたがっているのかを感じとることができるだろう。あなた自身の声によって、ことばの息吹と鼓動を回復することができるはずだ。
この記事の中盤を実際に読んだ音声をここに置いてみた。「文字」で読む時と、「声」で聴く時の違いを感じてみてほしい。
今日、自分で書いた文章を、声に出して読んでみよう。日記でもいいし、送れずにいるメールでもいい。うまく読もうとしなくても大丈夫。ただ声にして、自分の声を「聴く」それだけで、何かが変わるはずだ。
もし「自分で読んでも、ことばの鼓動が感じられない」「声にする前に、書くことで止まってしまっている」という人がいたら——そこから一緒に始める場所があるので、こちらを覗いてみてほしい。
TOMOKO
