自然の世界は凸と凹でできている。
川、海、土という凹。
雨水や土砂、生きものの凸で満たされる。
山や森の木々は凸。
小鳥や動物たちが木の実をついばみ、腹の凹が満たされる。
凸だけでも、凹だけでもうまくいかない。
自然は、そういう風にできている。
人間の世界はどうだろう。
あなたが話す、わたしは聴く。
これは、凸と凹。
あなたが書く、わたしが読む。
これも、凸と凹。
「私の話を聞いて!」という凸はあふれているけれど、
「あなたの話を聞きますよ」という凹は、案外少ない。
少なすぎるのではないか。
凸ばかりがひしめき合っている世界は、どこか窮屈で息苦しい。
たくさんの凸が寂しそうにしている。
なぜ、そんなことになってしまうのか。
じつは凸になるより、凹になるほうがむずかしい。
海や川になるには、水を受け入れる深さが必要だ。
水が溢れれば、川は氾濫する。
「書く」ことばかりが注目されがちな世の中だけど
「読む」こと、「聞く」ことは、思っているほど簡単ではない。
書かれた言葉を「読む」ためには、読み手の「持ち出し」が要求される。
先入観を持たず、心を開いて、考えなければならないこともある。
そんな面倒臭いことをわざわざしなければ、
ほんとうに読んだり、聞いたりすることはできない。
あなたが書いた文章を、ほんとうに「読んで」くれる人。
あなたの話すことばを、ほんとうに「聞いて」くれる人。
「心」を動かして、あなたのことばを読み、聞いてくれる人。
ネットの世界では、凸と凹の組み合わせは「計算」で決まるとも言われている。
その方程式は、一体誰が考えたのか。
そこに予断と選別がないとは、誰にも言えない。
そもそも、計算機は動かす「心」をもっていない。いまのところは。
自然の世界は、そんなふうに凸と凹の組み合わせを「計算」しているだろうか。
未だ人間の考える方程式では表せないものだらけだというのに。
自然界で、今もはみだすほどの凸(いのち)が生まれ続けているのは、
それを受け入れる凹(土壌や環境)があるからで、計算で制御したからではない。
自他と対話し、交流し、思いやることで、
凸と凹の調和と、驚くべき生命力が保たれている。
わたしたち人間も自然の一部。
そのことを思い出せば、自然と同じように生命力のある対話が
きっと生まれてくるはずだ。

