ことばのなかでも「文字」というのは少し不思議な存在です。なぜなら、わたしたちの感覚も、話しことばも、どちらも現れては消えるシャボン玉のようなものなのに、文字だけは違う。文字に刻み込んだ瞬間、固定され、生き続ける。書きことばだけは、そのような「不死性」を持っている。
養老孟司さんは、古代の王がピラミッドをつくらなくなったのは、文字が生まれたからだと書いていました。かつては、自らの存在を、巨大なピラミッドのような墓によって示す必要があった。けれども、文字が生まれてからは文字に刻み込むだけで「偉大な王ここにあり」と示せるようになり、巨大な墓を作る必要がなくなったというのです。まぁ、それがほんとうかどうかは確かめようがありませんが、文字の誕生、そして印刷技術の発展、さらにはインターネットによって、わたしたちは自分のことば、存在、記録を時間、空間を超えて残すこともできるようになりました。
書くことの葛藤は、動いてやまない人間と、ことばの不死性の間に矛盾が生じるからとも言えます。書いた瞬間から、わたしたちはひょっとして?と思ってしまうし、もっとこう言えばよかったんじゃないかと思ったりもする。AIが書き出したことばに違和感を感じることができるのも、わたしたちが生きた感覚や感情を持っているからです。不変ではいられないわたしたちにとって、とても自然なことですが、AIがそのような違和感を自ら感じることはありません。
かつては、身体を切り離すことで、劇的に研究が進んだ人工知能(AI)ですが、今は、身体をもつAI(ヒューマノイド)の研究も盛んにされています。果たして、AIが身体を持ったら、わたしたちと同じように感覚したり、感情を抱くことはできるのでしょうか。これは、わたし個人の見解ですが、同じように、感じることは、難しいのではないかと思うのです。
なぜなら、AIは死なないから。
不死を手にした人間はどうなる?
『ダンジョン飯』というマンガのなかで、不老不死の呪いをかけられた村人たちが登場します。わたしは、このエピソード、ちょっぴり不意をつかれてびっくりしてしまったんですよね。なぜなら、死ぬことがない世界なんて、久しく考えたことがなかったからです。
ごく小さいころは、どこか無限のいのちを授かっているような感覚があったような気がします。あれは何だったのか・・・。生死を超える魂だとか何か崇高ななものを感じてというよりは、死ぬなんてことをほとんど考えずに生きているアホなこどもだっただけのような気もします。
「無限」ということばを知ったか知らなかったかくらいのころのあの感覚。なんともことばにしがたいのですが、まだ肉体的なものとそれ以外との境界がすごく曖昧で、無尽蔵にエネルギーが湧いてくるというか、ほんとうに何にでもなれると思っていました。アラレちゃんにだってなれる!と本気で思っていたのです。そういえば彼女は不死のアンドロイドでしたね。
無邪気といえば無邪気なこどもだったのですが、いまでもわたしの根源にあるのは、あのアホさのような気もして、果たしてちゃんとオトナになれているのか、いまひとつ確信がもてません。とはいえ、そんなアホな私でも、少なくとも肉体のレベルでは、わたしたちは老いること、死ぬことがきまっています。その運命に抗うことは、今のところできません。
では、もしわたしたちが「死なない生」を手にしたら、どう生きるでしょうか。
食べなくても、寝なくても、風呂に入らなくても、死なない。そういういのち、人生を与えられたら、わたしたちはどう生きるのか、ちょっと想像してみてください。
不死は希望か、呪いか
「人生」なんてことばも、ひょっとしたら消えてしまうかもしれません。だって「死ぬ」ことがないわけですから、なにをもって「生きて」いるのか、その境界は非常に曖昧になってしまいます。
食べても食べなくても死なない、何をしても死なないし、何もしなくても死なない。全人類が不死を手にしたら、資本主義社会がどうなるのかはわかりませんが、仮に、今と同じ資本主義社会が続いていたとして、お金がなくても、住む場所も、寝る場所がなくても、めちゃくちゃ汚くて臭くても死にません。死ねないんです。永遠に。
このマンガのなかで、不死の魔法は「呪い」と言われていました。いざ、想像してみると、どうでしょう。人が、よりよく生きようとすることができるのは、「死ぬ」ことが決まっているからだとも思えてきます。この不思議な感覚はいったい何なのか?!
でも、こどものころの、わたしは死なない、何にでもなれる、アラレちゃんにだってなれる、なんでもやったるぜ!というあの感覚とは、ちょっと違うような気がするのは、わたしだけでしょうか。そしてそれは、手を抜いたりサボることを覚えた、ズルい大人になってしまったせいなのでしょうか。
生きたことばとは何か。
人間もほんとうは、シャボン玉のように生まれては消える存在です。
人間はことばを持ったことで「死ぬ」という概念を理解し、死を怖れるようになったと言われています。人間がことば、とりわけ文字や書き言葉に力を感じるのは、死ぬことを理解した上で、老いることも死ぬこともないことばに希望を感じたからかもしれません。
ことばが不死性をもったことで、今なお、生き続けていることばがあります。私が本を読むのも、何かを書こうとするのも、そういうことばに出会いたいからです。では、何をもって、「生きたことば」と言えるでしょうか。おそらく、死ぬことが決まっているわたしたちが、生きているときにだけ、感じられる何か、呼応することのできる誰かです。
死ぬことが決まっていなければ、感じることのできない生の臨場感。それを感じたときにだけ、そのことばは、時間、空間を超えて生きている、そう言えるのではないかと思うんですよね。
TOMOKO
【編集後記】
じつは、一年前までYouTubeに「一行一会」というショート動画シリーズをアップしていました。シンプルにわたしがいい本だなって思った本やことばを気楽に紹介するだけのものだったのですが、これが「感覚することば」そのものだったんじゃないの?ということに、一年越しで気づきました。
なんで更新をやめていたかというと、「面倒くさくなったから」のひとことに尽きます。なんて怠惰なのでしょうか。イケナイ大人です。でも、一行の抜粋は秒で終わるのに、本の写真を撮ったり、内容にあった写真を選ぶ方に時間がかかりすぎました。
でも、わたしの一行一会は今も手帳で続いています。これがわたしのことばの土壌にもなっている。ならば、いっそ写真とか映像を載せるのを一切やめたらどう?と思って、テンプレートをごくシンプルにしてみました。
まだ数本アップしただけですが、ちょっと面白いことが起こってます。本からの引用よりも、書きかけのゴリフルから抜粋したことばの方が、再生回数が多かったりするのです。それこそ「生きたことば」とは何なのか、ここもひとつの実験場となるかもしれません。もしよろしければこちらも覗いてみてください。(YouTubeはこちら)
TOMOKO
自分の手で書くことをやめない人たちへ。
表現する人のためのニュースレター「THE LETTER OF WONDERS」でお会いしましょう。
