読者からの「反応」は、取るものではなく託されるもの

先日、「読者からの反応が取れない」という一行に目が留まりました。そこで感じたのは、違和感というより、憤りのようなもの。

なぜなら、反応は「取る」ものではなく、読み手の内側で起こるものだから。でも、ひょっとしたら、わたしもどこかで無意識に使っていたかもしれない、って思ったんですよね。

 「反応を取る」という言い方はいつから使われるようになったのでしょうか。気になって調べてみたのですが、これだ、という正確なところはわかりませんでした。ただ、1980年代からテレビの視聴率が人びとの「反応」を数字に置き換えたように、この頃からから広告やマーケティングの世界で、response rate 「反応率」「レスポンス率」ということばが急速に広まっていきます。ひょっとしたら、人のこころを、数字で測れるモノのように扱いだしたときから「反応を取る」といういい方が使われるようになったのかもしれません。

もちろん、数字で測るのが絶対悪だ、という話ではないのですが、反応の「応」という文字に「こたえる」という意味があるのは、「応」は、もともと「鷹狩り」を意味することばだったからです。

日本で鷹狩りは、「うけひがり(誓ひ狩り)」神に真意を問う占いの方法として行われてきました。

神意を問うことに対して、神が応答する、神がこたえる。それが「応」のもともとの意味だったのです。

さらに気になったので「取る」ということばの「取」という漢字を調べてみました。

【取(シュ/とる・めとる)】
討ち取ったものの耳を証拠として切り取ることを「取」という。敵の耳を切り取るの意味から、すべてのものや事について「とる、うばう」の意味となり、また「めとる」の意味にも用いられるようになった(白川静『常用字解』)これを読んだら「取る」ということばは、とても暴力的で残虐なことばのように感じられないでしょうか。

これを読んだら「取る」ということばは、とても暴力的で残虐なことばのように感じられないでしょうか。こんな話、いちいち気にしてられないと思う人はレターを解除していただいても構いません。ただ、わたしは文字やことばの語源や字義をしらべたり、自分のつかうことばがどのような意味を包み持っているか、これを意識しておくことは、とても大切なことだと思っています。

もちろん、わたしも白川先生のように字義や語源のすべてを把握しているわけではありませんし、よくよく調べてみたら、「ああ、あれはまずかったな」という経験はわたしにもあります。

「ほんとうにこの言葉、この表現でいいだろうか。」そのような疑問や迷いが胸のうちに生ずるのは、ことばから問いが投げかけられているときです。届けることを急ぐより、少し面倒でも調べた方がよいですし、使うべきではないことばをみつけたら、それを祓うことの方が先です。それがわたしたちが受け取る人に贈ることのできる、最初の敬意ではないでしょうか。

読み手に起こる神意は、取るものではなく、起こるもの、生ずるもの、託されるもの。
わたしたちが今日できることは何でしょうか。
わたしも自戒をこめて、この問いを携えていたいと思います。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。

TOMOKO

【編集後記】
そもそもなぜ、わたしはこのことばに「反応」したのでしょう。
ひょっとしたらYouTubeを再開したことと関係があるかもしれません。YouTubeを開いて最初に目に飛び込んでくるのは、いわゆる再生回数とか登録者数といった「エンゲージメント数」です。SNSの仕組みは、徹底してわたしたちに「数字を追う」ようにつくられています。

数字はたしかにわかりやすいひとつの指標ですが、それに踊らされるのは違いますし、ことばの向こうに人がいることを絶対に忘れてはなりません。わたしが、今回のことばに「反応」したのは、それを知らせるためだったのかもしれません。書くときも、読む時ときも、ことばは自分の映し鏡ですね。

TOMOKO

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書いた人

TOMOKO|ことば研究家|「感覚することば」の案内人|
書く、読む、聴く、話す。ことばを通じて、あたらしい自分に出会う。
人間の感覚は五感だけではありません。ことばが感覚になるのは人間だけです。『ゴリフル』:ゴリラが教えてくれた「感覚することば」の世界(☜現在執筆中です)