先日、「ニジノ絵本屋」ってところに行ってきました。都立大駅で降りなきゃいけないのに、1個前の学芸大駅で降りてしまった(笑)。ややこしくないか(私だけ?)でも、そこでビビッと心を鷲掴みにされる絵本を見つけました。その名も「山のフルコース」。
『山のフルコース』 はらぺこめがね 著
どう鷲掴みにされたかは、ぜひ、実物を手に取っていただきたい。着眼点がすごい。そうきたか!って感動します。絵も最高に美味しそうなのです。
はらぺこめがねは、夫婦ユニットで作品をつくっています。旦那さんがたべもの、奥さまは人物やお皿を描いているんだとか。
来週から二子玉川で展示会があります。
ラッキーなことに枠が空いていたので、似顔絵を描いてもらうことに!
いい感じだったらプロフィール画像にしようかな〜なんて娘に話したら「ママのプロフィール画像は私が描く。2000円。」って言われました(笑)
「いっしょに創る」という選択
はらぺこめがねも、娘が好きなtupera tuperaも二人組。そういえば漫才とかお笑いも二人組が多いですよね。娘は、保育園時代の大親友と絵本がつくりたいって言ってます。その子は保育園の頃からナレーターをしたり、小学生になってからも文章が書くのが好きで、夏休みにうちに遊びに来た時に、つくりかけの絵本の原稿を見せてくれました。でも絵を描くのはあんまり好きじゃないって言ってたので、たしかにこの二人が組んだらおもしろいかもな〜。
アーティストやクリエイターさんって、何となく孤高の存在みたいなイメージもありますけど、実は、売れている人たちって「作家集団」でつくってるというのが、その世界の主流らしいです。アンディ・ウォーホルとか、印象派の芸術家たち、運慶、狩野派も絵師の集団でした。もっと詳しく知りたい人は、村上隆の「芸術起業論」とか読んでみてください。※ただし、この本はかなりクセ強なので、読者を選ぶことを一応、お断りしておきます(笑)
もちろん組むのは誰でもいいってことにはならないけれど、「呼応」でしか生まれてこない創造や表現というものも確かにあるので、誰かと一緒につくることで表現の可能性が一気に膨らむこともありますよね。もちろん、馴れ合いじゃいいものは生まれないけれど、本気でぶつかり合って、より良い作品を磨き上げていけるような関係の人と一緒にできるなら、ひとりでがんばる(我を張る)より、誰かと組んでクリエイティビティを刺激し合うのは、いい選択肢じゃないでしょうか。
創造のプロセスって必ずしもイケイケGOGO!ってことばかりじゃないですから、喜びは2倍、悲しみは1/2、まぁそんな単純に倍半分になるものじゃないけれど、分かち合いながら進めるのは、心強いよな〜!って思いますね。
じっくり温めるより、飛びたい衝動が勝る人は・・・
やりたいこと、表現したいことはいろいろあるけれど、自分の魅力を自分で客観視するのは案外難しいもの。そもそも「自分の姿」を正しく見ることは可能なのでしょうか。残念ながら「鏡に映った自分」も左右逆になっているので、自分を正しく映して見えていることにはならない。自分の後ろ姿を自分で見ることもできない。それは不可能なのだよ。ということを、私たちは物質世界を通じて教えてもらっているのかもしれない。
世の中から求められる「椅子」は、ひとりひとりに必ず用意されているけれど、その椅子は、鏡の中の自分を正しく見ることができないように、自分ひとりで見つけることは難しい。自分で思っていたのとはちょっと違う場所に椅子があったりする。その椅子の場所を明らかにしてくプロセスには、やはり「誰か」の存在が必要だったりする。
ひとりひとりに輝く原石は必ずあるけれど、原石は見つけて終わりではなく「輝ける自信」まで育てていくことが必要で、自然の摂理は「温める時間」の大切さを教えてくれている。植物の種子は、大地に根付いてから発芽するまでの期間があり、実りを迎えるまでにはしかるべき時間が必要だ。鳥は卵をあたためて孵化させ、人間の赤ちゃんだって母体の胎内で育てる期間がある。あまりにも早く生まれてきてしまっては、命のリスクもある。
とはいえ、じっくり温めているだけでは退屈してしまう人もいるだろう。どうしたって「飛びたい衝動」が勝ることもある。私自身がそのタイプだからよくわかる。ひらめきと直感にしたがって、これだ!って思ったら、すぐ動く。作戦なんてあったもんじゃない。それでロスしたり、損していることもあるかもしれないけれど、そもそも「損」という概念は誰がつくったのだろう?「損をした」と思う根底には誰かとの「比較」がある。ただ、この話に触れてしまうと終わらなくなるし、今日の本題とはずれてくるので、また別の機会に譲ることにする。
このタイプの人間は、その衝動を抑え込んでも鬱屈してひねくれるだけで、ロクなことにならない。あれこれ策を練るのは、臍の緒がからまるだけだ。だから、飛んで跳ねて、泳ぎながら、走りながら、カタチにしながら、楽しみながら育てていく。お腹の中で大人し過ぎる赤ちゃんより、動き回る赤ちゃんの方が母親は安心するものだ。
とにかく、ひらめきや衝動には「賞味期限」がある。さっさと仕込まないと腐って終わる。作戦なんてものを、どうしても考えたいのなら、カタチにしながら考えればよい。でなきゃ、娘の絵本だの、ちょっとむかつく関西弁のLINEスタンプをこんなハイペースでつくったりはしない。
いい感じにムカつくスタンプができた(笑)
結局、週末に家族会議しながらCanvaでつくることに
タイトルは「会社大好き人間」のウザい返し【関西弁】
結局、週末に家族会議しながらCanvaでつくる方が早かった。画像をクリックしていただくとLINEスタンプの全貌が見られるのだが、「こむぎのイラストをTシャツにしたい」といってくれる人がいた。いいアイデアだと思った。
ウザいパパTシャツを、クリスマスプレゼントとして旦那さんにプレゼントしてやろうかと思った(笑)。
未来を引き寄せるためにすべきこと
梅の実は放っておいたら腐ってしまう。梅干しなのか、梅酒なのか、梅ジュースにするのか、梅ジャムか、梅肉エキスか、何にするかはあなた次第。そもそも梅の実なんて使いません!という選択もあなたの自由。とにかく、ひらめきやアイデアという素材は、降りてきた今!仕込まないと腐るという、「ナマモノ的な性質」を持っている。
梅干しや梅酒が熟成されるのは、仕込んだときだけだ。ちなみに「仕込みが肝心」というだけであって、商品やサービス、あるいは作品として完成形に至っていることが必然という意味ではない。じゃあ、なんで私が娘の作品をひとまずカタチにしているのかというと、私たちが「関西弁のウザいおっさん」という素材に構っていられるのは今しかないからだ。どう考えても「次」の素材がすぐにやってくる。「思春期」にも備えなければならないかもしれない(笑)。未来のすべてを予見することなんてできないし、次のひらめきが降りてくるスペースは常に空けておかねばならない。
とはいえ、絵本をつくったら、祖父母とのコミュニケーションが生まれたり、絵がLINEスタンプになったり、今日のメルマガのネタになり、Tシャツになるかもしれないように、仕込んだものが、さらに次の素材になるということを、私たちは知っている。自分たちの元に、ひらめきやアイデアやヒントに限らず、人もそうで、特別な「ご縁」が降りてくるのは、ほんの一瞬だ。直感したら、失礼のないように、すぐ動いて「点」を打たないと、未来を引き寄せることはできない。
突然だが、量子力学によると、この世界は「波と粒子」でできているらしい。おまけに、波が突如消えたように見えたかと思ったら粒子になったりする「二重性」を持っている。スティーブ・ジョブズの”Connecting Dots”の話は有名なので、知っている人も多いと思うが、意図した点と点がつながって波(未来)になるとは限らない。思いもかけない点(粒子)が、いきなり波(未来)に化けることもあるし、逆も然りだ。ということは、どういう点を打ったらうまくいくかなんてことを、人間が全て読みきって設計しようだなんて、おこがましい気がしてくる。
ひらめき、直感優位な人は、その特性を生かして「何が起きるかはお楽しみ!」くらいの勢いで、ひらめいたら、完成度は40%でもいいから、どんどん「点」を打ってみることだ。やっているうちにスキルは熟達はしてくるし、クオリティを本気で上げたいと思ったら、全部自分でやらなければならないというルールはない。
「作家集団」という話を冒頭に挙げたのはこの結論のためだったのか!と今気づいたが、これだって最初から意図して書いたのではない。たまたま書いていたらこの話とつながっていることに今気づいただけだ。「点」が何に化けるか、ここで何を書くことを託されているかだって、わからないことだらけなのだ。
現在のレベルがどうであれ、自分が打った「点」のことについて、人に伝えること、伝えようとすることはとても大切だ。なぜなら、思いがけず、楽しい「波(未来)」が現れてくる可能性は、あなたの「点」を見ている「他者」によってもたらされることがあるからだ。そして他者によってもたらされるその「波(未来)」はあなたの想像の枠を超えていることもある。自分で自分の可能性を狭めず、与えられた「波」に委ねるゆとりも大事にしたい。
【編集後記】
一時期、数学者とか、物理学者の話に夢中になっていたのですが、数字や記号で論証を試みる天才的な人たちが、その道を極めると、哲学の世界とか、幸福の追求みたいな世界に行ってしまうのが、面白いよなぁって思ってました。
どっちもこの世(あの世)の「原理の追求」ってことなんだと思うのですが、さんざんやってきて、最後に生きる意味や、しあわせってなんだ?みたいな「記号で表せない世界」に帰結してくるのもまた、人間の性というか、自然の摂理なんでしょうかね。
そういえば今日は途中から文体が変わっちゃったんですが、これも意図してやってることではなく、委ねたら自然とそうなりました。直そうとすると変な感じがしたんで、そのままにしてます。何かに固執するより、いつもと違う自分を楽しむこと。それも自分メディアを長続きさせるコツですね。ではまた。
TOMOKO