言葉と世界は、絶望的なズレからはじまっている。

そもそも言葉と世界とは、一対一で対応していないし、絶望的にズレがある。

生きる言葉』俵万智著

谷川俊太郎さんと対談した俵万智さんのことばだ。

言葉が世界と一対一で対応することはない。
それでも、どうやったらそのズレを少しでも小さくできるのか。谷川俊太郎さん綴ることばの精度は、そもそも言葉や詩というものを、とことん「疑う」ことからはじまっているからだと彼女は伝えている。

これを読んで、私は、あるタイミングから言葉の可能性を心から信じている人だと思っていたけれど、そうではない、ということに気づかされた。

だからこそ、ちょっとでも可能性の側に紡ぎ出したいというのが私の根底にある「衝動」であって、手放しに可能性だけを信じている人ではないのだ。

思うように伝わらないもどかしさ。だったら最初から言うのをやめた方が傷つかなくて済むじゃないか。そんな誘惑に飲まれて言い淀んだ経験は、数えきれない。こどものころから、肝心なことはひとつも伝わっていない気がしていたし、それ以前に、自分が思っていること、感じていることのすべてを言い表す的確なことばなんて、「見つからないのでは」と、いつも途方に暮れている人だったのだ。

「伝わらないのが当たり前」海外で味わった心地よさと解放感

そんな私が、はじめて海外にいったとき、お互いに「伝わらないことを前提に」コミュニケーションできることに、とてつもない”解放感”を味わった。もちろん、そこから先は、圧倒的に足りない語彙力、表現力の乏しさに苦しむことになるのだが、それにしたって「伝わらないのが当たり前」という前置きが置かれていること、少しでも相手の話をわかろうとする「温もり」が存在していることに、私はものすごく救われる気持ちになった。

ほんの1週間ほどの短い滞在だったが、日本に戻るときは、とてつもなく憂鬱になった記憶がある。当時は大学生で、友人もいるし、別に誰かに冷たくされていたわけではない。それでも、どれだけ言葉を尽くしたって、すべて分かり合えることはないし、表面的にわかったような気になることの危うさに、どこか怯えていたのかもしれない。

私は、決して言葉巧みな人間ではない。むしろ、言葉に対してものすごく不器用な人間なのだ。そんな奴にとてもじゃないが私の文章を任せることなんてできない、と思われそうだが、ほんとうにそうなのだ。

今日はいいたいことが思い切り言えたぜ!そう思えることは滅多にない。話すよりは文章のほうが推敲できるだけまだマシだと思っているが、自分の文章にしろ、誰かの文章にしろ、ことばの周りにまとわりついていてるスッキリしないものを、どうにかして、少しでも取り除こうと苦心している。この世界は余計なものが多すぎる。くそう、と思いながらしつこく、何度も推敲を繰り返している。

私は「日本語」というものを、ほんとうに使いこなせているのか、全く自信がもてなかった。日本人でありながら日本人ではないような感覚。そんな私のことを、スパッと「在日日本人」と表現した人がいたのだが、「ほんと、うまいな」と思ってしまった。私はこういう言葉はすぐに出てこない。うらやましい限りである。

絶望と同居していることばのやさしさに賭けている

さて、俵万智さんや、谷川俊太郎さん、あるいは私のように言葉を「仕事に」している人間ならともかく、自分はその道のプロではないし、「秒」で言葉を繰り出せる時代なのに、そんな面倒な逡巡などしたくない、そう思う人もいるかもしれない。

でも、言葉をどうつきあうかは「生き方の姿勢」と直結していると思うのだ。今日のこのブログや、SNSのコメントひとつでも、ちょっとした違和感を感じたまま、えい!と投げ込むことができない。

それはどこか自分と、受け取り手に対して、誠実さを欠く、と感じてしまうからだ。だからといって、毎日ちょっとずつでも声をかけてあげたい、というやさしい人を否定するつもりもない。その人にとっては、毎日声をかけることが、誠実な行為であるはずだからだ。

言葉の姿勢は、生き方の姿勢やあり方、価値観と通じている。絶対にこれだという「正解」は決まっていない。他人の真似をしても、うまくいかないのは、みんなちょっとずつ違っているからだ。

「ちょっとずつ違っている」そのことを許容しているところに、言葉のやさしさが内包されていると思う。言葉と世界はもちろん、言葉とその人自身も、一対一になることはない。それでも、ちょっとでもその一部が伝わったら、わかりあえたらと思いながら言葉にする。

私のみている世界と言葉が一対一ではないように、あなたの見ている世界と私のみている世界は絶望的なくらい違う。そんな「絶望」からはじまっているにも関わらず、その世界が交わり、なんらかの形で縁が紡がれているのだとしたら、それはやっぱり奇跡的なことだし、だからこそ、それを叶えてくれる言葉に対しては、いつでも真摯でありたいと思ってしまう。

私は言葉に絶望しながら、言葉のやさしさに一縷の望みをかけている、そんな「言葉オタク」なのである。

ではでは。

【編集後記】
そういえば、言葉オタクを自負していた私のことを「ことばおばけ」と表現したデザイナーさんがいました。そんなデザイナーさんの脳内を覗いてみたい、という方は、こちらのブログをどうぞ。

書いた人

ポテンシャルエディター
/言語化プロデューサー
TOMOKO

あなたの持つ、まだ語られていない才能や可能性を
「編集」の力で引き出します。

「これが正しい」と思って選んできたはずなのに、
なぜかしっくりこない仕事や人生の選択…。その"違和感"の正体は、あなたのもつ本当の才能や、ポテンシャルを発揮しきれていないから…かもしれません。

湧きあがる“衝動”
心が震えるような“感動”
言葉にできない“予感”や“直感”——

唯一無二の「わたし」の才能と衝動への原点回帰。
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