母は泣き、娘は・・・?

シェル・シルヴァスタインの『大きな木』という本をご存知でしょうか。私は中学生のときにこの本に出会い、「どうしてこんなに与え続けることができるんだ!」と布団につっぷして泣いた絵本です。思春期に家で号泣するっていうのは、まあまあ稀有なことだったと思いますから(笑)、私にとってかなりインパクトのある絵本でした。その後、英語版も購入して2冊持っていたのですが、とあるきっかけでAmazonを覗いたら日本語版が村上春樹訳に変わっていました。(私が持っていたのは本田錦一郎さんの翻訳です。今は絶版になっていました)。

大きな木(The Giving Tree)左から本田錦一郎訳・英語版・村上春樹訳

読みたいような、読みたくないような・・・村上春樹が嫌いというわけではないのですが、どこか自分にとって特別な絵本だったので、村上春樹版を購入するのは、一瞬ためらいました。でも世界のムラカミはあの絵本をどう翻訳しているのか。どうしても気になってしまい3冊目を購入。そして案の定といいますか、予感したとおりといいますか、まるで別の作品になっている・・・。そう感じました。

もし私がはじめて手に取ったのが村上版だったら、泣いていなかったかもしれません。同じ本を3冊買うほどには、特別な作品にもなっていなかったかもしれない。ただ、この感じ方も、私が最初に出会ったのが本田版であり、特別な印象を持っていたからかもしれません。そういうフィルターを通して読むというのは、必ずしもフラットな状態ではありませんから、私がもう少し冷静に、純粋なまなざしで村上版を作品として読むには、もう少し時間が必要かもしれない(あるいは、一生できないかもしれない笑)と思いました。

細かい違いを挙げたらキリがありませんが、個人的に一番印象に残っている少年(おとこ)がすべてを持ち去り、切り株だけになっているシーン。

原文:And the tree was happy… but not really.
本田訳:きは それで うれしかった・・・だけど それは ほんとかな。
村上訳:それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね。

原文に忠実なのは、村上訳かもしれません。でも、あえて結論を保留にして、読者にゆだねた本田訳に、天意のようなものを私は感じます。

この本の原題は The Giving treeです。私が中学生の時泣いたのも、どうしてこの木はこれほどまでに与え続けることができるのか、その1点でした。ひょっとしたら私たちの概念を超えて、木は与えに与えて、とてもしあわせだったかもしれない。あるいは、著者が書いているように、本当には、しあわせでなかったかもしれない。その答えは、この木にしかわからないし、時間軸を変えて見たら、その答えはまた変わるかもしれません。

ちなみに娘は本田版を読んで「モヤモヤする。このオヤジ(少年)、ファック!」と叫んでいました(笑)まったく同じ1冊の同じ絵本なのに、母は泣き、娘は怒る(笑)。 

 ここで私が娘に対して「そこで怒るのは変だよ」とか「間違ってる」って諭したら、それは変だと思うじゃないですか。絵本だったら「あなたはそう思うんだね」と言えるのに、現実の世界のことになると「こうしなさい」って、つい言いたくなることは、私もあります(笑)。でも、娘の未来の視点に立てば、それは余計なお世話であり、娘が感じること、選択する機会を奪っているかもしれない。「その絵本は泣くのが正しくて、怒るのはおかしい!」と言っているのに近いかもしれないですよね。

これだけ本離れが叫ばれても、絵本も小説もビジネス書も哲学書もなくならないのはなぜなのでしょう。人はもっとやさしくありたいし、寛容でありたいし、自由な未来を見たいし、可能性に賭けたい。作品の中だけじゃなくて、現実の世界でもそうありたいと願っているし、それは可能だと直感しているからじゃないでしょうか。

違っているから、やさしくなれる

ここでふと、海外を一人旅したときのことを思い出しました。言葉が達者なわけでもないのに、ものすごく楽しくて、日本にいる時よりもだいぶ奔放にしゃべっていたような気がします(笑)。それって、なぜだったんだろうと振り返ると、自分と周りは違って当たり前であり、わかりあえないことを前提にしていたからだったと思うのです。

生まれも育ちも文化的背景も違う、言語が違えば思考回路も違う。違うことを前提に、お互いのことをわかりあおうとすると「やさしさ」が自然と生まれてきます。もちろん、言語の拙さゆえに、伝えきれないもどかしさや齟齬もたくさん生じますが、それ以上に互いに心を寄せ合い、わかろうとする意識によって、とても温かなコミュニケーションが生まれたことを思い出しました。

私たちは親子であるとか夫婦であるとか、重なっていると信じている部分が多ければ多いほど、無意識にわかりあえるはずだという期待が膨らみます。それゆえ「近いはずの存在」ほど、ささいな違いや、伝わらなさにチクチクとしたささくれを感じてしまう。でも本当は、親子であろうと、夫婦であろうと、違うのが当たり前です。『大きな木』で泣く母がいれば、怒る娘がいるように。同じ作品を、同じ翻訳で読んでも、感じ方はこんなにも違うのですから、目の前の景色を同じように見て、同じように感じているなんてことはあり得ません。親子でありながら、違いに驚き、笑い、とまどう。どうして人生が交わったのか不思議なくらいの人と夫婦になったりする(笑)。なぜ、そんなことを遺伝子レベルで希求してしまうのでしょうか。

未来のためには、違うことが必要だからとしか思えません。ものすごく身近な存在でさえ、違うことが必要なんだということです。案外、もっとも身近なところに、閉じられた世界から飛び出すヒントがあるかもしれません。「あなたはそんな風に感じるのね!」と、違うことを面白がるところから、あなたが望んでいる新しい世界のヒントが広がっているのかもしれません。

【編集後記】
相変わらず書きかけの原稿がほとんど残りません。消えた原稿もまた「夢」のようなものなのかなって最近思います。言葉にしなかったアイデアやイメージは自分の記憶からもやがて消えていってしまいます。どうしても書かずにはおれない、言わずにはおれないものは、忘れないうちに言葉にしておきたいですね。

T O M O K O

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経営者の方が本業に集中しながら、人と人とが心を通わせ、拠り所となる自分メディアをプロデュース。

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