先日、出版を目指すクライアントさん(女性)に、ある宿題を出しました。
音声記録で率直に話しておられていた回答を聞いて、最初に浮かんだのは、茨木のり子さんの「依りかからず」という詩。
最初は、この詩だけを共有しようと思ったのだけど、何かひっかかる・・・。
しばし、逡巡して浮かんだのが、二人目の女性詩人、長嶋南子さん。
南子さんと出会ったのは、松下育男さんが主催していたbuoyの会という、詩の勉強会だった。コロナの前だから2017、8年頃だったんじゃないかと思う。
南子さんは、詩でもリアルでもまあまあ言い草はキツい。毒も吐く(笑)。
でも、嫌いじゃない・・・というより、好きだった。
自分もこんな風に書けたらと憧れた。松下さんをはじめ、周りの人からも一目置かれる存在で、人を愛し、愛されている人だった。そして、すごく切れ味のいい詩を書き、何冊も詩集を出しておられる。
彼女の詩集やら本やらをいくつかパラパラしていたら、茨木のり子さんの「依かからず」について触れている文章を発見した。
茨木のり子さんの「倚りかからない生き方」に共鳴する人はたくさんいるだろう。彼女の詩は、私たちの奥底で”たぎっているもの”に火をつけてくれるような強さがある。
その一方で、「寄るところをキョロキョロと探してしまう」という長嶋南子さんの言葉もまた、とっても素直で正直で、共感する人も多いんじゃないだろうか。
依りかからず生きるには、依って立つことばが必要で
依りかからずに生きる強さ、たくましさに私たちは憧れる。けれども、そんな彼女のことばの力はどこから生まれてきていただろう。
むしろ、ひとりで生きられない現実や、世間や時代に翻弄され、揉まれまくったところからしか生まれてこなかったんじゃないだろうか。抗いたくても、抗えない時代の流れ。戦争。夫の死。納得のいかない現実が、彼女に詩を、力強いことばを書かせていたように思う。
南子さんが「ことばこそ寄りかかりの最たるもの」と書いておられるように、ことばは、ひとりで生まれてくることができない。
ことばが生まれるには、何か寄って立つものが必要だ。
ぼんやりと「あぁ、しあわせだ〜」と脳内にお花畑が咲きつづけていたら、わざわざ言葉で何かを表現しようだなんて思わない。
ちょっと極端な言い方かもしれないが、「不」や「負」を感じることのない世界だったら「ことば」は生まれなかったんじゃないかとさえ思う。
不(負)をもって言葉で制す
ひょっとしたらヤンキーと呼ばれる人たちは、案外、いい詩を書く素質を持っているかもしれない。いちいち心にひっかかるものに気を留め、つっかかったり、挑んでいく。不快、不満、不安、不足、不信….諸々の”不(負)”の感情が、ことばの動機になる、強いエネルギーを持っている。いずれにしても、針が振れなければ、ひっかかるものがなければ、言葉なんて生まれようがないのだ。
しかしながら「言葉で表現する」というのは、面倒臭いことであり、エネルギーを使うものでもある。ヤンキーが持て余したエネルギーを向ける矛先に困って、いちいち世間に向かって面倒臭いことをしていても、わざわざ詩やことばをしたためようなんて気になれないのは、そういうことかもしれない。
エネルギーなんて使わず、サクサクと書いている人もいるのかもしれない。ただ、少なくとも私はサクサク書く人種ではない。私がいくら文章を書きはじめたら止まらない性分だといっても、「書くなる上」は、自らを取材し、原稿を執筆し、推敲もする。文章を書くことも、言葉にすることも「面倒臭い」ことであることに変わりはない。そうまでして、言ってやりたいこと、いちいち物申したいことがあるから「書く」のである。
脳内お花畑の世界からみれば、わざわざ、そんな面倒臭いことをするなんて”キチガイ”じみている。だから、この世が「お花畑」だったら、ヤンキーなんて存在しない世界だったら、きっと「ことば」なんて生まれていないだろうと思うのだ。
世間や他者に揉まれることなくして、ことばは生まれてくることも、働きかけることもできない。話し言葉も、書きことばもことばが効力をもつのは、誰かがいるときだけだ。
「拠りかからず」という力強い詩でさえ、ことばに「拠りかからず」して、生まれることはできなかった。彼女のことだから、そんな皮肉や矛盾に気づいていたはずだ。その矛盾に気づきながら、世に送り出した詩が、天声人語か何かに取り上げられたとかで、詩集は、売れに売れたという。
その現実を、彼女は椅子の背もたれに「拠りかかりながら」眺めていたのだろうか。
力をもつ言葉を放つ女性は”したたか”である
二人の女性詩人に共通するのは、他者や世間がどうであれ、自分の考えや理、生きざまを正直に貫いているところだろう。だからスカッとする。気持ちがいい。私もこうありたいと思う。
周りからの同調圧力や、押し付けがましい「正しさ」なんぞどうでもいい。そういう圧力の一切がなくなるなんてことは、少なくとも私たちが生きている間は、ない。
むしろ、そういう無言の圧力や違和感を”逆手”にとることで、彼女たちの言葉は依って立つことができている、とも言えるではないか。そのくらい、二人はたくましく、したたかな女なのだ。だから私は二人の作品が「好き」だ。
できあいの思想、宗教、学問、権威におべんちゃらをつかって生きるほうが、ひょっとしたら省エネで世渡り上手と言えるのかもしれない。でも、私たちはそれをしない。「私たちは」と書いたのは、私もそれをしたいとは思わないからだ。
貴重なエネルギーは、おべんちゃらに使うのではなく、自らが放つ言葉にチャージしなくてはならない。パワーをもつ言葉を綴るには、エネルギーが必要なのだ。
そう考えると、渡る世間は鬼ばかりだろうが、世間に対する苛立ちというのも捨てたもんじゃない。うんざりするほど、荒波に揉まれに揉まれてきた、そういう人生ほど、「書くべき言葉に溢れる人生」と言えるんじゃないだろうか。
そうはいっても、自力で書くことに限界を感じている方もいらっしゃるかもしれません。
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TOMOKO