生きるという至福を抱きしめて

いのちを抱きしめて

 

変わることを受け入れつづける

 

Resonate your LIFE!

いのち響かせ、天命・天職で響奏しよう

天命ストーリーライターろっぺん です。

 

どんな毎日を

過ごしているでしょうか。

 

日常、当たり前の

不気味さに気づく。

 

変わらないのは

当たり前ではなく

むしろ不自然で、

本来いのちは

変わり続けているもの

 

つねにその胎動を

感じ続けているもので

あるはずなのに

文章だけが、

ことばだけが

変わるまいと

しがみつき続けてるなんて

おかしい。

 

美しい結末

洗練するのもいい。

それも生まれ変わること。

 

でも同時に、

葬ったことばの土壌の上に

芽吹き、花を咲かせる

本物もきっとある。

 

何が正しいか正しくないか

ではなく

どんな可能性にも心を開く。

 

葬られていく

あまたのことばに

誰かのこころを

照らす言葉も

あるかもしれない。

 

 

むしろ変容し続ける

ことばの自然に

生きていたい。

 

 

無責任に発するのでは

なく、変わり続ける

ことばに責任をもちながら。

 

変容する力を勇気付ける

言葉があってもいいんじゃ

ないかと思います。

 

 

結論や着地が訪れるのを

待つことなく、

書いたそばから

変わる勇気を持ってみる。

 

 

そういう感覚が

私の中に起きていることも、

数日前の私と

もはや違っている。

 

 

あえて、今の私が

書きたいことを

ひと思いに綴ってみようと

思います。

 

熱性けいれんが襲った日

 

育休からの復帰を目前に

控えた3月

 

 

おっぱい大好き星人の娘が

おっぱいを欲しがらない。

 

おかしい・・・どうして?

そう思った瞬間、

娘が白目をむいて

ガクガクと痙攣しだした。

熱性けいれん。

ふつうは15分以内で

おさまるといわれている。

 

でも、とても15分も

ひとりで落ち着いて、

なんて見ていられる気が

しなかった。

 

控えていた

小児救急ガイドに

電話をかけて

様子を報告しながら

指示を仰ぐ。

 

15分たっても

娘のけいれんは

一向におさまらない。

 

家の前に救急車が到着し

救急隊員が処置をし

娘の名前を何度叫んでも

反応はない。

けいれんは、収まらない。

 

財布と母子手帳だけ

ひっつかんで

そのまま大学病院へ

搬送されることになった。

 

救急搬送されて

 

病院に着くと

娘はベッドに移されて

そのまま奥の部屋へと

運ばれていった。

 

娘がどうなっているのかも

わからない状況で、

旦那さんに電話しても

「熱性けいれん」だけでは

深刻さがなかなか

伝わらなかった。

 

薄暗い廊下のベンチで

ただ待つしかなく、

どれだけ経ったのか、

途方もなく長く感じる。

 

医師がやってきた。

 

娘の痙攣はなかなか

おさまらず、

2つ目の薬を

投与してようやく

おちついたと聞いた。

 

「聞いた」と

書いているのは、

その時すぐに娘と

再会できたわけでは

なかったからだ。

 

入院の手続きの説明を

したいと言われ、

別室で医師から説明を

受けることになった。

 

30分以上続くけいれんは

複雑型とされていて、

原因が何であるかの

特定が難しいという。

 

病院についてからも

熱が上がっていて、

インフルエンザが疑われるので

今検査しているとの

ことだった。

医師は出たり入ったり

看護師も出入りしていて

慌ただしい。

 

ひとりになると

娘の変化に

もっと早く気付けていたら

こんなことに

ならずに済んだのではと

途方もない罪悪感に

飲まれそうだった。

予期せぬ再会

 

しばらくして、

A型インフルエンザ

であることが確認され、

今回のけいれんで

想定される最悪のケースは

「インフルエンザ脳症」だと

説明された。

でも今時点で脳症かどうか

診断できないという。

 

最悪のケースを想定し

万が一の進行を抑えるために

低体温療法*を行いたい

という説明を受けた。

(*体温を下げて、脳代謝を遅らせるための処置とされる)

 

でも、低体温療法も

「効果がある可能性がある」

といわれているにすぎず、

「絶対効果がある」とは

言えない、

とのことだった。

 

判断を迫られるも、

「どうして良いかわからない」

が本音だ。

自分の行動に落ち度が

あったのではと

嘆いても

後悔している時間も、

旦那さんが病院に来るのを

待つ時間もなかった。

 

脳症でない可能性だって

もちろんある。

でも、その診断は

すぐにくだせない上、

脳症の場合は

一刻を争う。

そのリスクの重さを思うと

脳症でない可能性に

かけるのは

無謀に思えた。

これ以上、最悪の事態に

対応していなかったと

悔いたくはないと、

低体温療法の処置を施す

決断をした。

 

低体温療法について

医師は丁寧にひとつづつ

説明してくれたが、

それでもこの処置で

娘がどうなるのかは

私の想像の範疇を

はるかに超えていた。

 

それがわかるのは、

集中治療室で眠る

娘と再会してからだったのだ。

集中治療室で再会した娘は

人工呼吸器をつけられ、

静かに眠っていた。

 

こんな書き方はしたくないが

強制的に植物状態にされて

眠っていた。

 

それが娘だとは

信じられなかったし、

信じたくない娘の姿が

そこにあった。

 

生と死の狭間に

いるかのような、

血の気なく

眠っている娘。

 

退院後に受け取った

膨大な薬のリストの明細に

愕然とした。

今も時々この時の処置で

娘の身体にどんな影響が

残っているのだろうかと

胸が疼くこともある。

 

そんな処置をしなくても

よかったのではないか、

しない方が良かったのではと

思うこともないわけではない。

でもあの時、

あの場でした選択を受け入れ、

ただ待つしかなかった。

 

非日常ではじめて感じる日常

 

インフルエンザに

かかっても構わないからと

娘のそばに居たかったが

それは叶わず、

面会の時間はごく短時間に制限された。

 

旦那さんと二人、

毎朝、近所の神社に祈り

娘が生まれてから

1年あまりの

慌ただしい日々とは

あまりに対照的な

ゆっくりとした時間を

過ごすことになった。

 

もちろんそこに

娘の姿はないままだ。

 

どれほど悲しみに

明け暮れることに

なるのだろうかと

恐々としていたのに

わたしたち二人の間に

不思議なほど

静かで穏やかな時間が

流れていった。

 

私たちにできるのは、

ただ祈ることだけという中、

血管が浮き出して

岩のようにゴツゴツと張り

凶暴な姿となっている

おっぱいだけが

私の代わりに

何かを叫んでいるようだった。

 

 

72時間の低体温療法の間、

面会は15分ほど。

 

冷たい娘の手を

そっと握る。

 

娘はどこにいるのだろう。

とてもそこに

娘がいる、

とは思えなかった。

 

 

ゆっくりと静かな時間、

でも途方もなく長かった

72時間、

ようやく低体温療法が終了し、

MRIをとった結果を

説明されたのは、

入院してから4日目の朝だった。

 

「脳症の症状はありませんでした」

 

医師からそう説明されて

力が抜ける。

泣いたのかどうかも

記憶にない。

ただただそのことに

感謝した。

 

目を覚ました娘は

おっぱいを欲しがったが、

長時間の麻酔の影響が

完全に抜けるまでは

誤嚥の恐れがあるので

授乳はしばらく

できなかった。

 

娘は号泣していたが

いつもの、

おっぱいが大好きな

娘がそこにいて

ただただ嬉しかった。

 

面会時間は相変わらず

30分以内に制限され、

授乳は1日1回しか

できず、毎回冷凍した

母乳を届けていた。

 

柵のつけられた

ベッドから泣き叫ぶ娘の姿に、

後ろ髪引かれながら

部屋を後にする。

数日後、

ようやく娘は退院した。

 

生きるという至福

 

好きなだけ

抱きしめることが

できるようになって

心から喜んだが、

退院してからも

しばらくの間、

娘の顔からは

笑顔どころか、

表情が消えていた。

 

よほど精神的な深い

ダメージを負わせて

しまったのかもしれない。

心の傷が今もあるかも

わからない。

 

それでも徐々に

娘はいつもの表情を

取り戻していった。

 

娘の温もりを感じられる

ことはもちろんだったが、

笑顔だけが

至福なのではなく、

泣いていても

怒っていても

「あなたがいて良かった」

そう抱きしめられることに

至福を感じていた。

ずっと笑顔でいることが

幸せの象徴だと

思っていたけれど、

すべての感情、

生きるという

表現の中に

至福が宿っている。

娘が眠っている間、

私たちの間に不思議に

穏やかな時間が

流れていたのは、

きっと娘に抱きしめられていた

その温もりに

包まれていたのだろう。

 

 

私たちに様々な

感情が起こるのは、

揺さぶられるためでも

誰かを揺さぶるためでもなく、

あなた自身を通じて、

あなたとつながる存在から

「あなたがいて良かった」

「あなたは、たからものだよ」

そう呼びかけられ

抱きしめられているからだ。

片時も休むことなく

贈り届けられている

その贈り物を

受け取り

抱きしめていったら

きっとこの世界の

愛おしいあまたの

いのちたちに

「あなたがいて良かった」

抱きしめられていると

感じることができて

「あなたは、たからものだよ」

そう抱きしめるやさしい力を

自らの内に感じることが

できるはずだ。

ろっぺん

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